伝説の青春小説が照らす心の迷走

 J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)を読み終えて、これが小説だと思った。読んで爽快な気分になるのでなく、希望を抱いたり温かい気持ちになったりするのでなく、絶望や怒りに駆られるのでもない。小説以外ではすくい取れない現実がすくい取られ、目の前に突き付けられる。

 高校生の主人公はクリスマス休暇を前にして、成績不良を理由に退学処分をくらう。学校のあるペンシルベニア州から自宅のあるニューヨークに向かう道中、主人公のモノローグが延々と続くが、学校の教師や友人にはじまり、タクシーの運転手、バーの店員やピアノ演奏者、とにかく目につくものはほとんど「インチキ野郎」などとこきおろす。

 青春期特有の純粋さや潔癖症ゆえに大人たちの不純さが目につくという面もあるが、自己中心主義や手前勝手な正当化も多分に感じられる。いずれにせよ、主人公は堕落と破滅への道を自ら進んで転げ落ちていく。そして、引き返せない崖の上から落ちると思ったところで、幼い妹への愛によって踏みとどまる。本書のタイトルは、幼い妹から「何になりたいの」と尋ねられ、「ライ麦畑で駆け回る子供たちが、崖から落ちないように捕まえる役」と答える場面に登場するだけであり、つかみどころがないがないまま読み進めたが、自己破滅への道を進む若者を押しとどめるものという解釈が可能なことを最後の場面で思いつく。

 本書についてはずいぶん前から「ライ麦畑でつかまえて」のタイトルで知っていたが、恋人たちがライ麦畑で戯れに追いかけっこをするような恋愛小説を想像していた。ところが、実際読んでみると、青春のほろ苦さや甘酸っぱさのかけらもみられない。ただ破滅欲求と自己中心の狂気に駆られるグロテスクな青春が繰り広げられる。これが多くの若者にとって現実だろうが、やり場のない心を持て余し失敗と挫折を繰り返すことによって初めて懐の深い大人になれるとも考えられる。一方、主人公はこの小説の後、引き返せない奈落の底に完全に落ちてしまうという想像もできる。唯一の希望であった幼い妹も成長するに従って、「インチキ野郎」と呼びたくなる存在に変質することもありうるからだ。この二つの可能性を感じさせるところが、本書の深さなのかもしれない。(T)

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