時々、ドゥーチュイムニー(沖縄方言:ひとりごと)その2.
早朝の小雨の中、セミの合唱は鳴りやまず、短いひと夏の生命を謳歌するその勢いに、ついに雨は止んでしまった。
昨日の新聞記事によると、今日(7月26日)の午前中に、私の住まいの近所で不発弾処理が行われるようだ。
幸い雨が止んだので、不発弾処理作業もより安全で順調に進み、今回も危険な任務にあたる自衛隊員たちによって無事に処理されることを願う。
この不発弾は、戦後75年も経つというのに、いまだに発見され続ける沖縄の負の遺産である。しかも、これから70年後まで不発弾の発見と処理が続くだろうと言われているのだから、沖縄戦の凄まじさが伝わる。
戦後、不発弾が道路工事中に大爆発、死者が出る事故も起きた。
沖縄の不発弾の発見と処理の新聞記事は、毎月、毎週、週によっては3日連続で見た記憶もあるくらい日常的なものである。年間の処理数が平均800件だというのは、生活の実感からもうなずける。
なので、新聞記事の扱いも社会面の片隅に、交通規制の地図付きで掲載される小さなものだ。県民はその場所が、自分の生活圏と関わりがあるのかどうかだけを確認すれば、あとは興味を失なう。
私が小学生だった1970年代、原野を切り開いて開校した小学校の近辺では不発弾の発見はホントに日常であった。
今では信じられない話だが、校舎とは別棟だった職員室や事務室のある建物の前は、発見された不発弾の仮置き場となっていた。記憶では錆び付いた砲弾や一部が欠けた砲弾が5~6個が何の囲いも無く放置されていた。
また、私のクラスが手入れを担当していた花壇の脇にあった水道管らしきモノがある日ブロックでカバーされた。どうやらアメリカ軍の手榴弾ということが分かったのだ。
どこかで見つけた不発弾を近所の下級生が面白がって家に持ち帰り、ちょっとした騒ぎになった事もあった。
事故もなく幸いではあったが、今振り返ると、かなり混沌とした環境だった。
まだ曇天だが、晴れを願って、これから洗濯物を干すことにする。昼下がり、セミの合唱も小休止。
(y.y)