御嶽と死生観と経済成長
十数年前、沖縄に住み始めたころ、まず目についたのは御嶽である。神が宿り近隣に住む人々が手を合わせる場所だ。斎場(セーファ)御嶽は世界遺産に登録され、園比屋武(ソノヒャン)御嶽や首里森(スイムイ)御嶽は沖縄を代表する観光地の首里城内という関係などから、比較的名前が知られた御嶽が県内にはいくつもある。だが、気になったのは、こうした御嶽ではない。身近なところに数多く点在する御嶽である。
那覇市内の自宅から歩いて10分ほどの範囲に少なくとも何カ所もの御嶽がある。祠や香炉が置かれているが、多くはどういう場所か説明するものはなく住宅街の狭いスペースに息を潜めるように存在する。地元の人たちにとってはその前で手を合わせることは買い物に行くがごとく生活の一部になっていて、たとえ、世間が世界遺産や文化財と持ち上げ崇めても変わらないように見える。
ではもともと御嶽とは何だったのか。所説あるようだが、仲松弥秀著『神と村』は、「祖先たちの葬所になっていた場所であった」と記している。沖縄では、人は死んだら神になり、子孫たちを守ってくれるという思想が広まっていることを考えれば、有力な説かもしれない。
実際、本土では墓が寺院の境内にまとめて建てられるのに対して、沖縄では古い墓は住宅地や商業地など市街地のあちこちにもみられる。墓は穢れをまとった死の象徴ではなく、祖先=神が宿る場所。そのうち一族にとって重要な墓が時間を経るにしたがって、葬る場所の意味合いが失われ、神が宿る場所の意味が残り御嶽となったと考えるのは自然の流れかもしれない。
しかし、社会全体が近代化によって経済成長の波に洗われると、市街地を開発するためには点在する墓は邪魔な存在になる。また、後先のことを考えず現世を謳歌する刹那主義・物質主義が経済成長を支えてきたのに対して、死はそれらに虚しさと冷や水を浴びせる。死を連想させるものは経済成長とともに日常生活の視野からはじかれていった。(T)