『蔡温 伝記と思想』(真栄田義見著)

 蔡温(さいおん)は琉球王国時代の郷土の偉人として広く県民に知られている。那覇市国際通りにはその名を冠した蔡温橋があり、彼の後世に伝わる功績や逸話も数知れない。

 久米村出身、三十六姓の子孫の彼は琉球王国時代の三司官と呼ばれる官吏トップにまで登りつめた。治山治水でその手腕を発揮、羽地大川の大改修工事による穀倉地帯の保全の成功などは、多くの人の知るところである。

 伝記編では、彼の自叙伝(王府時代に自叙伝を書いたのは蔡温ただ1人)や資料を紐解きながら、また著者の真栄田の推察を混じえ、蔡温の姿を描き出す。生涯三度の結婚歴のうち病で死別したニ番目の妻マニクダルへの詩では、その哀切に満ちた心情を吐露し、国文学者の平敷屋朝敏疑獄事件では15人の処刑を断行する厳格さを見せる。

 後半の思想編では、蔡温の風水師としての意外な一面が明され、そして27歳、35歳と二度の渡唐は、多大な思想的影響を受ける名の知れぬ隠者や印度僧との邂逅を生む。これを契機に陽明の哲学と仏教が彼の思想の根底となり、その後の政治に携わる姿勢を支えた。特に晩年の著述においてはその思想が顕著に現れる。

 しかしながら著者の真栄田は蔡温の行為と言説との間に矛盾があるとして、こう問いただす。

 「陽明学の色濃い『蓑翁片言』で権力の虚構性をつきながら、自らが権力の虚構のあぐらをかいて、平敷屋朝敏一党を処刑したではないか。」

 著者は蔡温の矛盾を突きながらも、また「蔡温の思想には複雑な分析を必要とするものがある。(中略)平敷屋朝敏処刑には多面的批判が必要で単純な論断は避けねばならない。」と、どうやら真栄田も蔡温の思想的世界に彷徨い、出口を見い出せずにいるようだ。

 思想編における陽明学と仏教、そして道教までもをめぐる言説は、著者と共に哲人蔡温の思想世界の輪郭を探り出そうという旅であり、この著書の大きな魅力のひとつである。(Y)

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