本人が語る村上春樹と大江健三郎

 学生時代の頃よく読んだ小説家といえば、村上春樹と大江健三郎だった。村上氏の小説といえば、現実の裂け目にはまり、その下に広がる異世界へ知らず知らずのうちに引き込まれる。個人的にはそんなイメージがある。一方、大江氏の小説は、人間のどろどろした部分をあばき、目の前に突き出されたような感触を覚えている。

 両氏が自らの小説について語る『職業としての小説家』(村上春樹)と『大江健三郎 作家自身を語る』を続けて読むと、小説に対する両氏の対照的な向き合い方が見えてくる。村上氏がひたすらマイペースを保ち、自己の内面世界を小説化することに集中しようとしてきたのに対して、大江氏が天皇制や性、身障者といった社会の敏感なテーマを扱い、現実と格闘しもがき続ける姿は対照的である。

 一方、1980年代から押し寄せる時代の変化を、二人とも同じように感じた点は興味深い。大江氏は「私が感じていたのは、『いままでどおり買ってもらえるけど、読み通してくれる人は少ないのじゃないか』という危惧でした。講演会での質問や、周りの人たちの反応から、どうもうまく理解されていない、読者に通じていないということがよくわかった」と語る。

 村上氏との接点についても触れる。「(大きい書店で)平積みされているのが一面、赤と緑のきれいな装丁の『ノルウェイの森』で、私の本はその奥から恥ずかしそうにこちらを見ていた(笑)。非常に印象に強いんです、その小説が読まれる機運の転換が」。

 一方、村上氏は日本で純文学が力を失う中、批判の矛先が自分に向かうのを感じる。「いわゆるメインストリーム(主流派純文学)が存在感や影響力を急速に失ってきたことに対する『文芸業界』内での不満・鬱屈です。(中略)業界関係者にしてみれば、そういうメルトダウン的な文化状況が嘆かわしかった(中略)。彼らの多くは僕の書いているものを、あるいは僕という存在そのものを『本来あるべき状況を損ない、破壊した元凶のひとつ』として、白血球がウィルスを攻撃するみたいに排除しようとしたのではないか」。これをきっかけに、外国を中心に生活するようになり、米国の編集者とも出会い、海外での出版に力を入れるようになったという。何となく村上氏は海外で暮らし、外国でも作品が売れているという話を聞いていたが、こんな背景があったとは意外だった。(T)

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