島尾敏雄『死の棘』

 凄まじい夫婦のやりとりである。小説の中心は、浮気をした夫を妻が延々と責め立てることに尽きる。妻は夫の浮気で精神に異常をきたすようになり、平穏な伴侶の表情を浮かべていたかと思えば、時折、発作のように夫の不貞をなじり嫌味をまくしたて始め、疲れ果てて眠り込みまで続ける。

 夫はサンドバッグのように非難の言葉でひたすら殴られ、耐えきれなくなれば、箪笥などに頭をぶつける自傷行為に走ったり家から飛び出したりしようとする。しかし、夫は妻と別れたいわけでばない。何をしでかすか分からない妻だから、目を放すと心配でならない。仕事にも出かけられず、家計は困窮を極める。やむを得ず外出した時は妻のことが気になって仕方なく、家に戻って妻がいなければ、心当たりを探して夜中まで右往左往する。

 今の感覚では、分かれて縁を切れば清々し、互いにとって幸せな暮らしを送れるはずと思う。しかし、二人は切っても切れない関係と化していたのだろう。二人の精神は完全に一体化し、分かれることは、自分の半分を切り捨てることになりかねない。たとえどれだけ嫌いで醜かろうと、自分の分身として付き合い続けなければならないのだろう。現在、この夫婦関係がリアリティを持つかどうかは疑問である。小説が最初に世に出たのは1960年代であり、日本人の心は大きく変質したことは間違いない。(T)

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