分断の時代に公正中立は可能か 安田浩一著『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』②

 そもそも「偏向」とは何だろう。この言葉の裏側には、メディアは「公正中立」であるべきという考えがある。戦前・戦時中への反省から生まれたのであろう。軍部の発表をそのまま紙面に載せ戦争に加担したことは否定できない。権力の動きをチェックするのがメディアの役割という見方も広まった。ところが、近年聞かれるようになった、「偏向」を指摘する声は、権力との距離感ではなく、中国や北朝鮮など外国を利するかどうかを基準にして語られる。権力との距離感は近く、「偏向」は戦前・戦中に使われていた「非国民」と重なる部分さえ感じる。

 この問題を複雑にしているのは、もっぱら軍事、安全保障の分野で語られるためだろう。この分野は機密情報が多い上、「抑止力」という捉えどころのない概念が中心に居座っている。抑止力は、「武力衝突を起こしても勝てる見込みがないから攻撃を止めておこう」と敵対勢力が考えることによって発生するが、敵対勢力が自ら本心を表明するとは思えず推測するしかない。最終的には抑止力が機能しているかどうかは、武力衝突が起きるまでは結論づけられない。

 また、平和主義は隣国の脅威が声高に叫ばれる時代には旗色が悪いのは事実である。現代の日本においては完全に武力を放棄する絶対平和主義を受け入れることは不可能に近い。一定の自衛力を持ち交渉によって、自国の利益を主張しながらも、譲歩できる部分は譲歩して何としても武力衝突を回避する。時間がかかる上、竹で割ったような明確な判断基準を示せないことが多く、分かりにくい面は否定できない。

 一方、武力には武力で対抗する抑止論の方が勇ましく受け入れられやすい。「毅然とした態度」「敵になめられたら終わり」「なめられないように武力を持つべき」が幅を利かしつつあるのが現状だろう。ただ、武力に武力で対抗するには、相手が武力を拡大すればこちらも拡大せざるを得ず、さらに相手もこれを受けて武力を拡大する。永遠の軍拡競争に陥る可能性があり、これにどう終止符を打つかが大きな課題だろう。(T)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です