死を選んだ沖縄の若き魂
10代から20代にかけて理想と現実の矛盾に悩み、あり余るエネルギーをどこに向けてよいか分からず悶々と過ごす。だが、年をとるにつれて悩みは薄れ、心の平穏を保ち毎日を送れる。それは矛盾が解決したからではない。「理想ばかり振り回しても現実はよくならない」。現実と都合よく妥協することを覚えてからであり、現実に反発するエネルギーや気力を失ったからにすぎない。
比屋根照夫著『戦後沖縄の精神と思想』の最終章「一つの終焉――沖縄の戦後世代中屋幸吉の軌跡」を読みながら、こうした考えが頭の中から流れ出る。同書によれば、中屋幸吉は1950年代から60年代にかけて沖縄で学生生活を送った若者の典型。幼少の頃、悲惨な沖縄戦を体験し、サンフランシスコ平和条約によって日本から分離され重苦しい米軍占領下で多感な青春期を過ごす。
彼の「思想の転機」になったのは、1959年に起きた石川ジェット機墜落事件である。故障したジェット機は飛行士が落下傘で脱出した後、石川市(現在のうるま市)の小学校に突っ込み、彼の姪が「人間の形相をすっかりなくした棒ぎれみたいな焼死体」で見つかる。こうした絶望的な状況の打開を祖国復帰運動に求めるものの、現実の東京に触れることによって祖国本土に幻滅する。新しい運動の道を探るが、最終的には自らの死を選ぶ。
米軍統治下の沖縄について、著名な政治家や論客の言動に関心を払うことはあるが、一般庶民がどう感じ何を考えたかが注目を集めることは少ない。だが、必ずしも著名な政治家や論客が庶民の心情を代弁しているとは限らない。抽象的な理論ではなく、日々の暮らしの中で国家の存在を意識せざるを得ない庶民の感情や心情をすくいとることによって、沖縄にとって日本とは何かの全体像が輪郭を見せる。(T)