個性が重苦しい多様性の時代

 コロナ家籠りの時間を利用して、土井隆義著『「個性」を煽られる子どもたち』(2004年 岩波書店)を久しぶりに読み返した。振り返ると自分も学生時代、よく「個性」を煽られた。「これからの時代、個性のない人間はだめだ」みたいな論調が世に出回り始めた頃だと思う。大学の優劣を偏差値で判断する偏差値教育にどっぷり浸ってきた学生が、いきなり「個性」と言われても戸惑うばかりだった。

 そもそも個性とは何なのか。他人と比べて違う部分や特徴的なところ、「自分らしさ」と言い換えられる。他人と自分がどう違うか、なぜ違うか理解するには、他人と自分をじっくり観察し分析しなければならない。さらに、違いの意味や原因まで掘り下げるには、情報や資料を集める必要もある。しかし、小さい頃から、他人との違いになるべく目をつぶり、世の常識や流行に合わせるように育てられ、個性を伸ばす訓練をほとんどしていない。一方、「個性」は流行り言葉のように耳ざわりがよく、口にする人がどんどん増える。政治家の唱えるスローガンのようであり、ペタリと胸に張れるワッペンのようであり、表面的で薄っぺらな扱いしかされない。

このため、同書も指摘するとおり、「個性」の捉え方は思いつきや情緒的なものに向かいやすい。簡単に見つけられると思い込み、「一人ひとりの内側に眠るダイヤの原石」のイメージが拡散する。だが、本来は自分の中心軸になるはずの個性が感覚的ならば、その場その場で変わり不安定になる。また、簡単に見つけられなければ、個性のない人間として劣等感を覚えてしまう。

 同書では多様性の時代の難しさにも触れている。インターネット時代になって、音楽やスポーツからファッション、生き方まで、世の中はますます多様な情報にあふれている。自分の価値観を確立させ自己主張できる人にとっては好ましい状況だが、そうでない人にとっては何をどう選んでよいか分からず戸惑うばかり。目立ちすぎないように足並みをそろえなければという脅迫観念の一方、それなりに自分らしい人間も演じなければならない。個性がないとも言われたくない。人間関係が難しい時代といわれる。(T)

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