ネット・コロナ時代の孤独

 戦後、この国では多くの自由を獲得した代償として孤独と向き合ってきたはずだが、最近は孤独という言葉をあまり聞かない。言葉の持つイメージが悪いせいか。確かに「孤独死」は「孤立死」と言い換えられるようになった。一方で、孤独がさほど切実さを持たなくなったせいという気もする。近年、話題になった小説を思い浮かべてみた。

 2012年直木賞受賞の朝井リョウ『何者』では、主人公らは面と向かって言いたいことは口にせず、匿名のSNS上で本心を明かす。昭和のど真ん中世代にとってはにわかに理解しづらいが、日記で本心をつづれば心が落ち着くことに近いのか。いずれにせよ文面から孤独の匂いは感じられない。昭和世代が「面と向かって本音をぶつけられない友人関係など空しい」といくら叫んでも、人間関係はネット中心に移ることは避けられないのだろう。新型コロナ感染は簡単には収まらず、いずれ同様の新しい感染病がやってくることを予想すれば、そのスピードはさらに増すのだろう。

 その点、2014年直木賞受賞の西加奈子『サラバ』はまだどこか懐かしい匂いが漂う。勝手な印象だが、太宰治や村上春樹の作品がまとう孤独の匂いである。太宰は最初に衝撃を受けた小説家である。『人間失格』をはじめ主だった作品を読み漁ったが、孤独の底からあがる叫び声のように思えた。一方、村上作品になると、孤独の匂いはあるものの太宰作品のような湿っぽさはない。孤独は当たり前として受け入れる。見えない力に翻弄される中で、ヒリヒリとした痛み程度でしかない。誰かに分かってもらえるという期待は感じられない。(T)

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