首里城地下に眠る沖縄戦史

 首里城地下に広がる旧日本軍司令部壕に関する勉強会が10月25日、開かれたが、戦争を記録し後世に引き継ぐ作業は進まないどころか、時間の経過の中で埋没しかかっていることを改めて感じた。壕の痕跡を示す入り口は塞がれているか、私有地などのため一般の我々は簡単に立ち入れない。唯一目にできるのは、第32軍司令部壕の第5坑口(写真)だが、草木が深く生い茂る中を、ハブにおびえながらしばらく歩かないとたどり着けない場所にある。

 太平洋戦争末期、米軍を迎え撃つ旧日本軍の頭脳となったのが、第32軍司令部壕である。首里城地下に1000m余りのトンネルが掘られたといわれる。沖縄戦の実態を知る上では格好の学びの場になるはずである。戦後、何度か調査が入り、公開に向けた議論が交わされたが、戦中・終戦直後にトンネルが何カ所も爆破され、さらに戦後長い期間、放置されてきたため、随所に崩落が起き、司令部壕の整備・公開は難しいとする判断が下されてきた。

 確かに、司令部壕をすべて整備するのは難しいかもしれないが、一部の区間だけでも一般の人が入れるように復元するのは不可能ではなく、膨大な費用がかかるものでもあるまい。文字の記録だけでなく実際の司令部壕に入ることによって、当時の雰囲気や空気を肌で感じられる。司令部壕に関する情報や知識も頭に入りやすい。現地で可能なかぎり現物に触れることは歴史を学ぶ上では欠かせない。

1945年5月下旬、首里から本島南端の摩文仁へ撤退し徹底抗戦する方針は、司令部壕で決定された。これによって沖縄戦による被害を各段に大きくなったといわれる。司令部壕はどのようなもので、何が行われたか、断片的な証言はあるものの、まとまって総合的に学べる場はほとんどない。沖縄戦の実態を知り後世に伝える場として整備される必要があろう。

 この日の学習会で印象に残ったのは、沖縄戦のとき首里城に近い安国寺の壕で水くみの手伝いをしたという女性の証言だった。安国寺の壕に駐留する部隊長から「生きて、この戦争を後世に伝えてくれ」と声をかけられたという。重火器や戦車で武装する米軍に対して、手榴弾や竹やりのような貧弱な武器でしか向うことができず、しかも「首里は沖縄人が守れ」と逃げ出すことを許さない。勝てるはずのない戦いに「死ぬまで戦え」と命令される無念さがこもっていたのだろう。しかし、戦後生まれの我々日本人は、そうした叫び声に耳を傾ける心を失っているといわれても仕方がないだろう。(T)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です