昭和天皇と沖縄
最近、NHKの大河ドラマを見るようになった。若い時には、あんな古臭いものなんか見るまいと思っていたが、自分の知っている歴史上の人物がどう描かれるか興味を持つようになった。時代劇の舞台となる時代は現代と比べて何倍もの理不尽さに満ちていて、理不尽さに耐えて生きることに共感を覚えるトシになったのかもしれない。
さて、現在放映されているのは、明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」。気になったのは天皇の描き方である。はっきりとした意志と人格を持った登場人物になっている。ドラマはあまり見ない方なので、単純な比較はできないが、歴史ドラマの天皇といえば、これまでは、暗い部屋の奥でぼんやりとしか見えない幕の向こう側に現れるイメージがあった。
かつてのようなタブー視が薄れているのかもしれない。近年、昭和天皇が登場するドラマや映画が制作されるようになったが、2019年8月18日に放映されたNHKの「昭和天皇は何を語ったか ~初公開秘録『拝謁記』~」はたまたま見る機会があった。1952年、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い日本が主権を回復し、その記念式典で昭和天皇が述べる「おことば」原稿をめぐる内幕が再現ドラマで描かれている。昭和天皇は戦争への悔恨と反省の気持ちを強く表明することを希望するが、吉田茂首相(当時)の反対によって削除されたという。
大河ドラマのように、苦悩を抱えた昭和天皇の内面を垣間見た気分になる。ドラマは見る者への訴えかけを強めるためにテーマを絞る。純粋なフィクションならばそれでよいが、番組はあくまでも史実に沿ったという前提になっている。「拝謁記」は、初代宮内庁長官・田島道治が1949年から5年間、昭和天皇とのやりとりを書き留めた記録である。事実は光を当てる角度や場所が変われば、見え方が違うことを忘れてはならない。NHKの放送から3日後、2019年8月21日付の沖縄タイムスは、同じ「拝謁記」の中で、国内で激化する反基地闘争について昭和天皇が言及している点に注目している。
同記事によれば、ソ連の脅威に対して米軍に国防を頼らざるを得えないという立場から昭和天皇は、石川県の内灘や長野・群馬県の浅間で米軍基地に反対する市民運動が活発化することに対して1953年5月25日の拝謁で「小笠原でも奄美大島でも米国ハ返そうと思つても内灘でも浅間でも貸さぬといわれれば返されず、米国の権力下ニおいてそこでやるという事になる。米国の力で国防をやる今日どこか必要なれば我慢して提供」、同年6月1日の拝謁では「平和をいふなら一葦帯水(いちいたいすい)の千島や樺太から侵略の脅威となるものを先づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい 現実を忘れた理想論ハ困る」と発言したとされる。さらに同年11月24日の拝謁について「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應(いちおう)尤(もっと)と思う理由もあらうが全体の為ニ之がいいと分かれば一部の犠牲ハ已む得ぬと考える事」と記録している。
こうした考えは、沖縄の占領に関する「天皇メッセージ」に沿っているといわれる。終戦まもない時期に出された「天皇メッセージ」については、沖縄探見社から刊行された『沖縄・米軍基地データブック』で次のような解説をしている(同書の詳しい説明は、本ホームページの「沖縄探見社の本」コーナーを参照)。
「アメリカの対沖縄政策に影響を与えたのは、「天皇の沖縄メッセージ(※)」といわれる。天皇の側近を務めていた寺崎俊英が、駐日政治顧問のシーボルトに、共産主義勢力を抑止するためにアメリカが沖縄を長期保有し軍事基地を設けることを天皇が希望していると伝え、シーボルトはGHQ司令官のマッカーサーやアメリカ本国のマーシャル国務長官に、このメッセージを文書にして送ったという」
※天皇の沖縄メッセージ
アメリカ側の資料などによれば、1947年9月、寺崎はシーボルトを訪ね、次のように語ったという。
「寺崎が述べるに天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。天皇が思うにそうした政策は、日本国民が、ロシアの脅威を恐れているばかりでなく、左右両翼の集団が台頭しロシアが『事件』を惹起し、それを口実に日本内政に干渉してくる事態をも恐れているが故に、国民の広範な承認をかち得ることができよう。
天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上―貸与をするという擬制の上になされるべきである。天皇によれば、この占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソヴィエト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差し止めることになるだろう」
また、戦後沖縄の運命を大きく決定づけた沖縄戦に関して、昭和天皇が次のような判断を下していたことを、沖縄探見社刊の『いかに「基地の島」はつくられたか』で次のように触れている(同書の詳しい説明は、本ホームページの「沖縄探見社の本」コーナーを参照)。
「1945(昭和20)年2月、首相経験者ら重臣が相次いで天皇に時局について意見を具申している。木戸日記研究会編集・校訂『木戸幸一関係文書』によれば、近衛文麿元首相は、勝利の見込みのない戦争をこれ以上続けることは共産革命を招きかねないとして、「国体護持ノ立場ヨリスレバ、一日モ速ニ戦争終結ノ方策を講ズベキ」と進言した。世界的に共産主義の思想が広まる中、貧しい家庭出身の少壮軍人や長期の窮乏生活を強いられている国民の間に共産革命の土壌が醸成されることを恐れたのである。
これに対して天皇は、アメリカが国体の変革を考えているという観測が流れていることに触れるともに、早期の和平については「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々難シイト思フ」と述べた。もう一度、敵にはっきりとした損害を与え戦況を有利にしなければ、「国体」の保証を得られるような和平交渉は難しいと考えていたようである。
いずれにせよ、戦争終結の決断のないまま、日本軍は沖縄戦に突入した」
(T)