複雑・強大化する破壊神

 話題になっている劇場版アニメ『シン・エヴァンゲリオン』を見た。これまでの一連の作品はテレビで再放送を断片的に目にしただけであり、もともと筋立てが難解なせいもあろう、ストリーについては語りにくいが、圧倒的な破壊シーンは確実に頭にこびりつく。

 『ゴジラ』や『ウルトラマン』といった怪獣モノやヒーローモノでは、街の破壊シーンはほとんど決まりごとだった。巨大なビルの爆破シーンように、堅牢で揺るぎないものが一瞬のうちにドカドカと崩れていく場面は一種の爽快さを伴う。ストレス発散の効果もあるのだろうが、意識する意識しないにかかわらず、再生には破壊が必要という自然の法則が体にしみ込んでいるのかもしれない。

 台風などの暴風雨によって、古木が倒されて森に穴が開き大地から新芽が伸びる。溢れた川が上流の肥沃な土を運び込む。人間がつくる組織も年数が経つうちに硬直化し活力を失う。自己防衛本能を持つ内部の人間には変革は難しく、忖度しない「破壊神」が外部から乱入する必要がある。伝統的な祭の多くも、同じ作業の繰り返しに摩耗しがちな日常感覚を解体し再生する役割を持つ。

 ただし、祭は日常の破壊を疑似的に体験することにあり、組織の変革も人が死傷するわけではない。『ゴジラ』や『ウルトラマン』の破壊シーンは、時間が経てば再建できるレベルであり、子供でも恐怖を感じることはなかった。それに対して『エヴァンゲリオン』では、破壊者が人類を再生不能に追い込むほど強烈な力を振るう。

 核爆弾のような絶対的な破壊力を持つ兵器が急速に増殖する歴史や、相互依存と交通の高速化によって、新型コロナウイルスのように、ささいな出来事が震源地となって世界中に災厄が広まる社会構造の隠喩と受け取ることもできる。しかも、複雑なのは私たち自身が破壊者になりつつあることだ。人類の日常生活が生み出す地球温暖化や環境汚染が、地球を破壊しつつあることを思い浮かべただけでも、人類=圧倒的な破壊者の構図が浮かび上がる。それでも、このままでは人類は破滅の運命をまっしぐらに進むだけであり、現在の社会システムを大きく変える「破壊者」に、生き残りの道を託すしかないのだろう。(T)

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