沖縄で成人式を考える
今年は新型コロナの感染拡大のために成人式が中止になったりオンライン開催になったりして、振り袖など晴れの衣装を着られなくなったと嘆く新成人の声をよく報道で耳にする。そのたびに時代は変わったなと思う。自分が成人式の年齢を迎えた時は、式典に出たいとも晴れの衣装を着たいという感覚がなかったからだ。お上が決めた式典にのこのこ顔を出すのは格好がよくないという考えがあり、個人的には高校入学以降、地元とのかかわりがほとんど切れていたせいもあった。
今は成人式の位置づけが私の時代と比べ大きく変わったのだろう。だんだん伝統的な季節や人生の節目が薄れるのに反比例するように、自分たちがアレンジしやすい行事に狙いを定めて新しい要素を加え自分たち流に楽しんでいるようだ。成人式は昔からよく知っている仲間が多く参加し、そうした仲間たちとド派手な衣装をそろえ結束を確かる面もあるのだろう。コスプレ的な要素も含まれるかもしれない。
最近読んだ若手ミュージシャンのインタビュー記事でも、時代の大きな変化を感じた。彼は「インターネットの中で正体を明かさずに構築できるコミュニケーションはものすごく救いがある」と語っていた。見ず知らずの人間なんて、深い心のやりとりなんてできるもんかと直感的に思ったが、今の時代、他人との距離をとりづらいことを考えれば自然なことかもしれない。中途半端に相手のことを知っていると距離の取り方で気をつかい心地悪さを感じるが、お互いにまったく素姓も姿形も見せなければ、距離の取り方で気をつかう必要がなく気も楽になる。そんな面もあるのだろう。
日本では複雑な敬語の体系を積み上げ、型にはまった手紙の文面や挨拶・儀礼のしきたりを受け継いできたのも、他人との距離感に気をつかう精神性があるからだろう。距離感を形式や儀礼に落とし込めば、互いに気をつかうこともない。ところが、戦後はそうしたものは堅苦しく面倒くさいと、どんどん使わなくなったが、代わりに自分で距離感を測ることのはやさしくなく気疲れしてしまう。非日常的な人格と姿形に変身するコスプレも、そうした距離感の呪縛から一時的ながら解き放たれる手段かもしれない。(T)