命を捧げることを美化してよいか  井上靖著『補陀落渡海記』

 民俗研究者の間では、熊野地方と沖縄の文化的なつながりが時折指摘されてきた。琉球王国時代に熊野地方から「補陀落僧」と呼ばれる僧侶が沖縄に流れ着き、信仰・文化を広めたり集落を開いたりしたという言い伝えが残る。そんな秘密めいた伝説が気になり、井上靖著『補陀落渡海記』を読み始めた。

 補陀落渡海とは、海の向こうにある浄土を目指し、一人船に乗って海へ出ること。何日か分の食糧とわずかな燈油が用意されるだけで、船底に釘で打ち付けられた扉もない四角い箱に乗船者は入る。本人は生きて戻るつもりはなく、文字通り決死の船出だった。死者の魂は観音浄土にある補陀落山に流れ着き新しい命を授かるといわれる。

 主人公・金光坊は、補陀落渡海の僧侶を出してきた補陀落寺の住職。歴代の住職がみな補陀落渡海をしたわけではないが、三代前の住職から連続して61歳の11月に渡海したことから、周囲の人々は金光坊も同じ61歳の11月に船出すると見なし、金光坊もそうせざるを得なくなる。わが身を捨てて信仰に生きようとする姿は美しくみえるかもしれない。しかし、本人にその覚悟ができていないにもかかわらず、周りの人々がその美しさに酔えば、当人は死地に追い込まれるだけの危険な行為になる。これはもちろん遥か昔に消えた風習だが、そこに潜む危険は過ぎ去ったことと思い込むのは早計だろう。

 家族や仲間、国を守るために兵士になる、敵に屈服するくらいなら死を選ぶ。報道を通して、ロシア侵攻に抵抗するウクライナの人々のこんな声が聞こえてくる。平和の中で暮らす日本人にとっては、まったく頭が下がる決意だが、一方では危険な香りも感じる。近年、中国や北朝鮮など隣国との摩擦・対立が伝えられるたびに、「勇ましさ」を連呼する人々に利用されないかという不安がある。外国との武力衝突の危機が伝えらえるたびに、本人の意志に反して「国に命を捧げよ」という空気が広まることは何よりも恐ろしい。(T)

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