退屈という名の地雷原を突き進め  國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』

 何百年にもわたる闘争を経て、貴族ら一部の人間にしか許されなかった自由と安定を私たち庶民も手に入れた。同時に退屈という副産物が生活の中に滑り込んだ。これに対して、酒やたばこといった一時的な気晴らしから始まり、パーティー、スポーツ、ゲーム、旅行や芸術など多種多様な対策がとられてきた。

 ところが、退屈は薄まるどころか一層深く私たちの生活に浸透し、生命そのものを脅かしかねない存在になった。退屈が開けた心の隙間を埋めようと、破産するまでギャンブルや買い物に明け暮れる人もいれば、アルコール中毒に陥ったり違法薬物に手を出したりする人もいる。得体の知れぬ宗教や思想に身を委ねる人もいる。

 これほど極端な行動に走らなくても、退屈とどう向き合うべきか四六時中頭を悩ませる人は少なくない。現代社会はある意味、至るところに退屈の地雷が埋め込まれた原野なのかもしれない。退屈そのものには地雷のような瞬間的な殺傷力はないが、とらわれた人の生活全体を蝕む力を持つ。しかも、より多くの退屈な人々をより組織的に取り込みビジネスに結びつけようと、より巧妙な仕掛けがつくられている、

 退屈の地雷原を進まないという選択もある。「奴隷」になることだ。自由や安定の証しである退屈を消し去るためには、自由を捨て去り絶えず不安点な立場に身を置けばよい。自分の目と耳をふさぎ、一つの企業や団体、思想に盲従して働き続ければ退屈する暇などない。しかし、いったん自由と安定を味わった現代人が再び「奴隷」に戻ることは容易ではない。それができなければ退屈の地雷原を進むしかない。

 退屈に深くとらわれることなく自由と安定の道を歩む術はないのだろうか。そういう意味では本書は大きなヒントを与えてくれる。そもそも退屈とは何か。なぜ生まれるのか、まずは退屈の正体を見定める必要がある。本書でも述べられるように、マニュアル本のように結論だけ読んでも意味がない。退屈は人によって異なり、退屈から抜け出す手段も人によって異なる。考え抜くしかない。(T)

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