日常にしみ込む八重山の歴史と郷土愛
たまたま仕事の関係で八重山に関係した書籍の編集にかかわっている。こうした場合、沖縄の人々、中でも八重山出身者の郷土愛の強さには驚かされる。今読んでいる資料の中に、別の島出身者である2人の方言研究者の2人が、互いに自分が出身の島の方言のほうが素晴らしいと言い張る場面がある。公式の場ではない私的な会話であり、言語学者ならば方言に優劣はないことは十分に承知の上で、故郷の言葉を愛するがゆえについ口に出た言葉だろう。
八重山出身者の日頃のやりとりを聞いていると、なんとなく頷くエピソードだ。人によって濃淡はあっても故郷に対する愛情の深さを感じるからだ。その理由はいろいろな要因が重なるだろうが、中央から遠く離れた辺境の地として、長い間搾取や圧政の対象になってきたこととは無関係であるまい。今でこそ再建中の首里城は琉球文化の象徴として慕われ敬愛されるものの、きらびやかな琉球文化も自分たちの祖先の苦しみの上に成り立ったとして、先島諸島からは冷ややかな声が聞こえることもある。
17世紀初頭に琉球王国は薩摩藩の侵攻を受け実質的な支配下に入り、薩摩藩からは米やサトウキビなど上納品を求められ財政的に困窮するが、王府はその困窮を先島に転嫁して負担の軽減を図った。小さな離島は大きな湖や河川はなく土地も肥えているわけではない上、風水害や干ばつなど自然災害が容赦なく襲いかかる。そこへ王府の過酷な政治が加わる。生死の境に追い込まれるような重税、村を分割し強制的に未開拓地へ移住など数々の悲劇の逸話が八重山に残る。もちろん、こうした歴史は遠い過去の話ではない。太平洋戦争中に日本軍の命令でマラリア流行地域に強制疎開をされ多くの犠牲者を出すなど、住民にとっては生々しい記憶がある。(T)