貴重な文化財の喪失は誰のせい? 保坂廣志著『首里城と沖縄戦』①
沖縄戦で南西諸島を防衛する第32軍が首里城地下に司令部壕が築いたことは広く知られ、現在、公開に向けて調査や工事が進められているが、本書ではこの司令部壕について一般的にほとんど知られず注目されていない事実が語られている。その一つは、なぜ首里城地下に司令部壕が建設されたか、である。
1944年10月10日、米軍機が那覇を中心に南西諸島を攻撃した「10・10空襲」がきっかけと指摘する。それ以前は南風原町の津嘉山に計画していたが、「10・10空襲」で米軍の攻撃力の強さを思い知り、津嘉山の地質では耐えられないことが明らかになった。しかも、その後、第32軍の戦力の一部が台湾に転出することになり、沖縄本島に上陸する米軍を水際で叩く戦略ではなく、地下壕に籠って持久戦に持ち込む戦略に転換したため、より強固な地盤に司令部壕を築く必要性が生まれた。
さらに、沖縄の文化財保護という視点である。美術評論家・柳宗悦が『琉球の富』で称賛した貴重な琉球文化が凝縮された首里が徹底的に破壊されたのも、首里城地下に司令部壕が建設されたことが原因だったことは間違いない。首里城周辺の地形や地層を理由に選定されたとみられるが、首里城という文化財に加え、当時は沖縄神社という宗教施設でもあったことが理由の可能性もある。つまり、文化財や宗教施設は米軍が攻撃しないだろうという期待が込められたことも十分考えられる。実施、1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸した後も、しばらくは首里城が攻撃されることはなかったという。