岡本太郎の日本再発見

  最近テレビでは、日本をやたら褒めたたえる「すごいぞ日本」番組が目につく。中国や韓国などアジア各国に追いに上げられ、分野によっては追い越され「経済大国」の地位から滑り落ちる中、日本の素晴らしさを再発見することで、視聴者は失いかけた自信を取り戻す。これがウケているのかもしれない。

 心身ともに打ちひしがれた敗戦からあまり時間が経っていない時期の1950年代から1960年代にかけて、芸術家・岡本太郎は日本再発見の旅に出たが、現在の「すごいぞ日本」番組とまったく異なる視点からの試みだった。仏教など外来文化が入る前の、日本人の精神に流れる源流を探す旅である。

 日本の伝統や文化といっても、無意味な飾りたて、大げさな振る舞いや形式主義を感じるものは「つまらない」と切って捨てる。ただ、純粋な心的エネルギーのほとばしりや自由な精神の躍動を凝視した。

 そんな旅のうち、まだ米軍占領下にあった沖縄についてまとめたのが『忘れられた日本 沖縄文化論』だ。歴史的な事実の紹介は最低限に抑え、芸術家として心ひかれたもののみに焦点を合わせる。「私を最も感動させたものは、意外にも、まったく何の実体も持っていない――といって差支えない、御嶽だった」と語る。

 御嶽(ウタキ)から受けた衝撃を次のようにつづる。「何かじーんと身体にしみとおるものがあるのに、われながら、いぶかった。なんにもないということ、それが逆に厳粛な実体となって私をうちつづけるのだ。(中略)あの潔癖、純粋さ。――神体もなければ偶像も、イコノグラフィーもない。そんな死臭をみじんも感じさせない清潔感。神はこのようになんにもない場所におりて来て、透明な空気の中で人間と向かいあうのだ」。

 文化を語ろうとすれば、彫刻や建築など形から入り、それを比較し分析しようとうする。しかし、「なんにもない」御嶽に心を寄せ、「なんにもない」ことに感動し、その凄さを語るとは、芸術家・岡本太郎ならではだろう。

 ひたすら透明で、一点の曇りのない神秘に、日本人の根源的な信仰を見ようとする。今でこそ、熊野と沖縄の文化の類似点が語られるようになったが、1964年『中央公論』で発表した「火・水・海賊」(熊野文化論)で彼が、「熊野の深くしずまった暗い神秘」と沖縄の御嶽は同じ根を持つと指摘したことも興味深い。知識や論理ではなく直接心に働きかけようとする文章は、今も読み手をひきつけ止まないものがある。


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