分かりやすさの便利さと怖さ

 書店の本棚を眺めると、「リベラル」に関連した本が増えたように思える。最近の「リベラル」をめぐる言説は、リベラルつまり自由主義が衰退し、国威発揚を唱えるナショナリズムや、秩序と安定を求める権威主義が強まっていると主張したいようだ。確かに、国内を見渡しても、隣国との関係について「なめられるな」「毅然とした態度で」という勇ましい声が強くなり、コロナの感染拡大に対して個人の自由規制もやむなしの雰囲気が濃い。移住者鎖国を続けた日本を別とすれば、世界的にも移民に対して門戸を閉める国が目立つ。

 政治や思想のおよその傾向を測るにはリベラルはキーワードになるのかもしれない。私が10代、20代を送った時代は、「自由」が最も重要な価値の一つだったが、現在は「安定」や「公正」がよく唱えられる価値になっている。確かに時代の空気が変わったと思う。しかし、個人や個々の組織に対するラベリングにはかなり違和感を覚える。特にメディアに対して「左翼的」「反日的」など攻撃的な言葉が際立つ。ラベリングというよりは、絶対に相容れない相手への敵対宣言のように思える。

 ラベリングは非常に便利だ。よく知らない個人や組織から、時代の雰囲気まで短い言葉でくくるため分かりやすい。安心材料にもなる。何か正体をつかめないことが一番不安を煽る。一方、人の生活や行動が極端に単純化される恐れもある。それまで何ら問題なく付き合っていた友人や隣人に対して、特定の宗教や政治思想でラベリングすることによって自分とは決して交わらない集団のように見えてしまう。敵と味方の区分けが始まる。宗教や政治思想のイデオロギーを頑なに信じているわけではないのに、そうしたイデオロギー中心の生活を送っているように思えてくる。見たい情報だけを見るネットメディア主流の時代では、ラベリングがさらに加速する不安がある。(T)

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