沖縄独立の可能性
名護市辺野古の新基地建設をめぐり、沖縄県の埋め立て承認撤回を取り消した国土交通相の裁決を「違法な国の関与」として、県が国を提訴した裁判で、福岡高裁那覇支部は10月23日、国交相の裁決について訴訟の対象にはなりえないと、県の訴えを却下した。
裁判の素人には、分かりにくい裁判である。辺野古沖の埋め立て承認を撤回した県の措置を、防衛局の申請に基づいて、同じ政府内の国交相が取り消したが、これが公正な判断なのか。なぜ、行政の判断を裁判の対象になりえないと司法が門前払いするのか。
基地をめぐる裁判では、司法が判断を放棄する事例が目立つ。単純な比較はできないが、米国の裁判所が積極的に行政の措置に対して判断を下しているのに比べると、日本の司法は行政のやることに口を出すことをためらうように見える。一方、10月22日、「即位礼正殿の儀」に合わせて、政府は55万人を対象とした政令恩赦を公布したが、司法判断を覆す恩赦は三権分立に反する可能性があり、行政権が肥大化している印象がぬぐえない。
辺野古新基地への反対を、総選挙や県知事選で、さらには争点を絞った県民投票で民意を示しても政府は無視。司法に訴えても門前払いとなれば、残された手段は何だろうか。たまたま、竹中労著『琉球共和国 汝、花を武器とせよ』(2002年 筑摩書房)を読んでいて、「独立」の二文字が頭に浮かんだ。著者は本土復帰を控えた沖縄に足繁く通い、「復帰」ではなく「独立」を訴える。復帰などしても本土に隷属するだけであり、独自の道を歩めと叫んだ。
いきなり独立論は受け入れられないとしても、本土復帰の時点から国と沖縄の関係が行き詰まることは見えていた。誰がどうやって国を守るか、あいまいなまま米国から兵器を買い米国を頼る安全保障政策を続ければ、沖縄に基地を残すしか手段はない。打開策は国と地方の関係を根本的に見直すしかないだろう。辺野古新基地だけに話を限定すると、日本全体の中では「迷惑施設」論に問題を矮小化されかねない。連邦制や自治州など、新しい枠組みを議論する必要な時期には来ていることは確かだろう。