矢崎好夫『八月十五日の天気図』
沖縄戦にまつわる著作は数多いが、本著のように、敵を迎え撃つ現場と作戦を指示する司令部の両面からの体験から書かれたものは珍しいだろう。著者は太平洋戦争末期、海軍気象士官として昭和19年7月、沖縄の小禄基地に赴任し、米軍上陸直前の昭和20年3月、沖縄を離れる。その後は、東京を経て大分や鹿児島の航空基地に経験する。沖縄に侵攻する米軍目がけて飛び立つ特攻攻撃「菊水作戦」の出撃基地だった。
戦争という巨大な歯車がいったん動き始めれば、数多くの無益な犠牲者が出ることがどれだけ明白であろうとも、どれだけ無益な犠牲者が出ようとも止められない。著者が終始一貫、痛感することだ。小禄基地では、戦車や自動小銃、重火器など最新兵器を備えた米軍に対して、担当部隊のまともな武器は小銃しかなく、しかも兵員の半分にも行き渡らない。銃以外で配布できたのは、1人あたり銃弾20発と手榴弾2発のみ。「無策というより無謀に等しいのではないか」と自問自答する。
転勤命令によって小禄を出て東京へ戻ると、海軍省の軍令部作戦室で開かれる会議に参加する。海相や海軍次官ら最高首脳が出席するため、「この会議の決定で、何百名かの人命が左右されるのだから命がけの緊迫した言葉のやりとりがあってしかるべき」と期待したが、幹部が報告を受けるだけのことが多く「会議は静かすぎた。見方によれば疲れきっていたのか、とるべき積極策がないのか、いずれにしても私には期待はずれであった」。
大分や鹿児島の航空基地では気象情報を無視した出撃命令を目の当たりにする。航空機にとって気象情報は欠かせないはず。安全に目的地にたどり着けるか。目的地で十分な成果があげられるか。しかし、詳しい気象情報を収集しようと思えば可能にもかかわらず、ほとんど無視されることが多かった。どしゃぶりの雨の中、何十機もの爆撃機に出撃命令を下し、1機も帰還しなかった。また「特攻機は重装備であり、エンジンの相対馬力は落ちているため、天候不良は非常な天敵であり足かせである」にもかかわらず、沖縄が天候不良の時に特攻機は出撃を重ねた。
現場や専門家の意見を取り入れず、司令部だけの都合や判断だけで推し進めることで、いかに多くの犠牲を生むか恐ろしいほど実感させられる。悪しき日本の伝統は終わっているのだろうか。70年以上前のことであるが、こうした教訓がどれほど現在に生かせているか大いなる疑問が残る(T)。
※本書は当店の「沖縄の社会・歴史<沖縄戦史>コーナー」で取り扱っています。本の状態や販売価格などの詳しい情報を掲載しています。